Tuesday, January 29, 2008

mais... afterthought

最近日本語と英語とフラ語とドイ語をちゃんぽんで使うのが楽しい。ドイ語なんて生活の基本表現がいくつかしゃべれるだけなんだけど。フラ語だって活用と語彙の暗記が圧倒的に不足してるんだけど(as you might have guessed, フラ語から活用と語彙を除いたら残るものはほんのわずかです・・)。でもnoneとa littleの間には大きな差があると思うのです。そして学んだことをどんどん実践していくことが大切だと思うのです。いずれこれにスペ語とアラビア語も混ぜたい。語学の勉強は直に触れ合える世界をぐんと広げてくれるという意味で、ものすごく楽しい。がんばります。。

さて、本題、前回の続き。そもそも論にたどり着きました。

国が国民を守る、守ってくれている、守るシステムがちゃんと動いている、っていうのはそれはそれですごくありがたいしいいことだとは思う。

でも、そもそも「国」っていうborderがあることが問題なのかもしれない、よね。Borderがあるから、borderの外に一歩踏み出せばそこは危険がいっぱいになる。
現状への対処としての国の保護、っていうのはいいと思うのだけど、そもそもその現状ってどうなの? ってお話ですね。全然レベルの違うお話。

もっとかっこよく言えるとしたらこれは主権国家体制への批判だよね。主権国家体制への疑問は、専門的な議論ができるのには程遠いにしても、ずっとなんとなく、高校の世界史だったり大学でEUについて学んだりしてから持っていたりします。

さらにこれが哲学的な方向にいくというかもっと一般化されて、「自分」というものをある境界で区切ることによって、自分というアイデンティティ(でもほんとはアイデンティティって他との比較じゃないんだよね。こないだ本読んでてようやくアイデンティティの意味が理解できた。Anyway,)が形成されるのと同時に、「他」というものが存在するようになる。その境界線があるから、あらゆるレベルでのconflictが起きるのではなかろうか――という思考がわたしの頭の中では展開されています。

でも「他」と異なることで担保される自分、っていうのはそれなりに重要なことだと思うのよ、人間が生きていく上で。だからもしかしたら本当に完全にborderlessなんて不可能なのかもしれない。でも、だとしたら、そのborderをどんどん遠くへ遠くへ広げていきましょうよ、と思うのです。もしくは、みんなが入れるような新しい概念(民族とか、宗教とかではなく)で、みんなと接していけばいいと思う。広ーい「自分」の中に、みんなを入れる。だって、誰も自分や自分の身近な人を傷つけたいって思わないでしょ? そういう人たちが困っていたら助けてあげたいと思うでしょ? うーん、説明があんまり上手にできてる気がしないんだけど、でも、このborderlessがここ数年のわたしの中の大テーマであるのです。要は、前にも書いた、「できるだけ多くのことを自分ゴトに」っていう言葉に収斂されると思うのだけど。

たぶんこういう思想ってもっと偉い人がもっとかっこいい言葉で言ってるよね、きっと。知ってる人がいたら教えてください。

こういう風に考える自分の奥底には、「人類みな兄弟」的なキリスト教的思想がやっぱり植えつけられているのでは、と思ったりもしつつ。。。

ああ、こんなことばっかり考えてるから今日もまた日が暮れる。

No comments:

Post a Comment