語らなければ。
語れなくても。
とにかく何か声を発しなければ。
という思いだけが、大きな深い暗い井戸の中に取り残された人が自己の存在を誰かに知らせようと切実な叫び声を上げるように、わたしを引っ張っている。
この1年で、「~~しなくちゃ」という無意味な義務感や焦燥感を捨てて、自分の心の声に素直に従うことを身につけた、はず、だったのに。
でもね、そこに、わたしと周りの人たちとのつながりの証拠みたいなものがあるんだと思う。
もちろんこの10ヶ月は他の誰でもないわたし自身のためのいわば我儘で勝手で自己満足的な時間だったけど、それでもそんなわたしを応援してくれて支えてくれた数多くの人たちの存在があって、どこかで、わたしの旅はわたしだけの旅だったのではないと思っている。
その人たちとのつながりが、わたしに「語れ、書け」と急かしている。
説明責任。
カメラを失くしたときもそうだった。
「写真撮らなきゃ」というわけのわからない義務感から解放された自由への歓びの影に、ひとつだけ残った気がかり。
「みんなに見せられないのが残念だな、申し訳ないな」
もちろんこれは、完全に自分勝手な、思い込みの義務感にすぎないんだけど。
「誰もお前の話なんか聞きたくねーよ」って言われてしまえば、「やっぱそうですよね」と答えるしかないんだけど。
だけど、この義務感こそが、わたしに他者とのつながりを感じさせてくれる、わたしが属する社会があるってことを教えてくれる、実感としての証拠なんだと思う。
本当に自分だけのためだったら、この10ヶ月間の経験や思い出やそれを振り返った時に生まれてくる思いは、自分の心の中だけにそっと大切にしまっておけばいい。
だけど、それじゃいけない、気がする。
わたしにはつながってる人たちがいるから。
、、とここまで長い前振りを書いたところで、まだちゃんとまとまった考えができてないのが現状です。ごめん!
でもとりあえず写真だけはアップしました。今のところトーゴの分だけだけど、徐々に他のもアップしていく予定です。よかったら見てね。
高校での話、一緒に面白いものが創れたらと思ってます。
ReplyDelete客観的には責任なんていう重苦しいものではありませんが、自分の外にあるものに突き動かされる感覚っていうのが、生きる上で大事なんだなぁと。
よろしくお願いします!