Monday, April 20, 2009

【解説編】あなたなら、どうしますか

こんばんわ。
前回のポストに誰もコメントをくれなかったのでちょっぴり骨川スネ夫くんです。心なしか出っ歯になったような気さえします。

嘘です。

あんな唐突な質問じゃ、誰も答える気にならないだろうなあと反省しました。


さてさて。


この前、トーゴ人の友達の友達が日本に来たので、会いに行ってきました。
そこでのエピソード。

ホテルで彼に会って、彼と一緒にご飯を食べに行ったときに、おごるべきかおごらないべきかものすごく悩んだ。というか、彼に会うことがわかってから、当日までずっと悩み続けていた。


***
1.

わたしが普段生活している社会では、ごちそうする/しないの判断ってそこまで重要なものじゃないと思う。
ただ単に気分がいい日とか、バイトしまくってお金がある時とか、特に深い意味もなくごちそうしたり、逆にされたりもしている。そしてそれはお互いにとって特に大きな意味を持たないんじゃないかな。少なくともプライベートの関係では。

そしてそういう、ごちそうする/されるという関係が健全に成り立つのは、自分と相手がある程度対等だからだと思う。

でも、これが途上国の人との間のことになったとたん、話は違ってくる。

これがわたしが何度も書いている「オリエンタリズムの内在化」の話です。

彼らの言うところの「yovo」(=白人=黒人じゃない人。欧米人も日本人も中国人もみんな「yovo」。)が、よってたかってアフリカにやってきて、「君たちは貧しいね、かわいそうだね、僕たちが助けてあげなくちゃ」と言って自分の罪悪感の消滅のために「援助」をすることで、トーゴ人自身の自己認識が、「白人に対して劣ってる、僕たちはだめなんだ」というものになり、さらに白人による「援助漬け」と相俟って、「白人は何でも持ってて何でもしてくれる、かわいそうな僕たちを助けるべきなんだ」となり、結局トーゴ人自身の主体性を奪うことになってしまっているのではないか。。。
もちろんそうじゃない関わり方だってあるはず(なのだろう)だけど、わたしがトーゴで受けた印象は何よりもこの「オリエンタリズムの内在化」でした。

こちらがいくら「対等に」(≒単なる友達として、とか)接したいと思っていても、あまりにも「こちらの世界」と「あちらの世界」の格差がありすぎて、絶対に対等になんかなりえない。彼らがわたし(たち)に接するときには、「この人は自分たちと違う」という、無意識的の壁が存在する。もし「対等に」接していると思っているとしたら、それはyovo側の欺瞞にすぎないと思う。

これは、感覚的に例えて言うと、ちょっと前の(今もかな?)日本人が欧米人に対して抱く漠然とした劣等感、もしくは憧れ、のようなものと似てるかもしれない。
でもわたしがトーゴで感じたのは、それのもっともっと圧倒的なものだった。

その圧倒的な溝あるいは壁の存在のせいで、わたしたちが何をするにしても、その行為は何らかの責めを負わなければならなくなってしまう。

先進国の人間が途上国の人たちにモノやお金をあげるのは、(もちろん判断は常にon case-by-case basisではあるけど一般的に)彼らが「持てる者」に依存する体質を助長することで、いつまでも彼ら自身が持てるようになるための主体性とか力を手に入れられなくなりそうで、むしろあんまりいいことじゃないんじゃないか。

そう思えてきたから、トーゴでは、わたしは安易にものやお金をあげないようにしてた。
「Renaが払うのが当たり前、だってyovoじゃん」みたいになったら終わりだなと思ってた。他のyovoたちがあまりにも当然のようにお金やものをあげているのを見て、「わたしってただケチなだけなのかなあ」とか自分を責める方向にばっかり行ったりもしたけど、それでもやっぱり他のyovoたちのやり方に対する強烈な違和感は拭えなかった。

トーゴでは、わたしがそれまで生きていた社会で当たり前のように「良い」とされていたものごとを、疑問視せざるを得ない状況がたくさんあった。
「本当に彼らのためになることは何か」と考えたときに、「良い」という言葉の意味は本当によくわからなくなった。
優しさとか、親切とか、そういう日本ではごく一般の道徳的価値の多くが否定された。(その結果、日本的な価値観からしたら「心がすさんだ」と表現すべき状態になったと自覚していました。)


***
2.

一方で。全然話は変わって。

わたしが生きる上でとても大切だと思っていることのひとつに、「自と他の“境界線”をなくすこと」というのがあります。言い換えれば、全てを「自分ゴト」にするという意味です。

人間って常に(ドラえもんの「独裁者ボタン」にもあるように、笑)他者との関わりの中で生きていて、相互に影響を与えあっている。英語の授業でよく習う “My mother has made what I am today.” みたいな例文にもあるように、「自分」をつくっているものを分解していくと、結局は「自分」って「他者」からの影響によって形作られていて、authentic(ってこの文脈で使っていいのかちょっとわかんないけど)な自分なんてあるのかしら、とよくわからなくなってくる。言い換えると、自分の中にも他者が生きていて、あるいは他者の中にも自分が生きていて、自分と他者の境界の線引きなんてほんとはよくわからない。

そうやってひとつひとつ考えていくと、自分と世界との関わりってすごく切実なものとして捉えられるような気がする。
誰も自分や自分の愛する人(「自分サイド」にいる人)を傷つけたいとは思わない。
だから、世界を「自分ゴト」に。

簡単に言うとこういう思想です。

(ただ、こういう明確な価値判断を含む一スタンスを暫定的に選択しても、その瞬間自分の中で相対化が起こるのは止めることができません。それでも、なんとかこれは信じていたい、と思う自分も存在する。そのへんの無限のループはここではちょっとだけ棚上げすることにします。)


***

さて、この1と2の冗長な話からわたしが言いたかったことをまとめると、

わたしはそのトーゴ人の友達の友達と
A. 「友達」として接したかった(⇒友達が海外から訪ねてきたら迷わずごはんぐらいごちそうする)≪2の話≫
でも、
B. 「先進国の人間」「途上国の人間」という関係を考えると、安易にごちそうすることはいいことではないような気がしている≪1の話≫
しかし、
C. 後者の立場をとればそれは一種差別的な接し方ではないのか、わたしは純粋に「友達」として接したいのに… ⇒A

という、永遠の循環に陥ってしまったわけでした。Aの立場をとってもBの立場をとっても、結局どこかしらで罪悪感や後ろめたさを感じざるを得ない。
そもそも、これほど圧倒的な溝が存在しているときに、「友達」という関係を持つこと自体可能なのだろうか? 

途上国の人(という区切り方をすること自体ものすごく嫌なんだけど、それ以外の理由が思いつかない)と接するのは、本当に難しい。
どうすべきかとか、答えなんてないんだろうけど。

結局あの夜は、わたしは彼の分も払ってレストランを後にしました。この上ない罪悪感を胸に抱えながら。。。

これを読んだ上で、あなたなら、どうしますか、という問いに改めて答えてくれる人がいたら大歓迎です。というか、誰か新しい光を差し込んでください。。。。

4 comments:

  1. ごぶさたしてます。かわもとだよ。
    ずっとコミュニケーションをとっていなかった気がする。。そもそも、おかえりって言ったっけ…??
    おかえりなさい!!!! 無事で本当によかった。

    コメント初めてな気もする(どうだったかしら)
    前回の記事にもコメントしたかったのだけど、あまり安易なことを書くのもどうかとためらってしまった。スネオくんにさせてゴメン。
    今回のコメントも安易になるとは思うけど。。



    問題編を読んだとき、わたしだったら、きっと何かしらの葛藤がこの世のどこかには存在するんだろうな、くらいの気持ちで、全部おごってあげるし、家にとめたりもしてあげてしまうだろうな、と思った。

    実際に途上国でたくさんの人と接してきたれなのその感覚は、あまりにも貴重で、あまりにも繊細で、それと同時に、わたしにはあまり実感のともなわない遠いものだと感じる。ものすごく正直なところ。

    このシチュエーションだったら(割合なんてたいした問題じゃないかもしれないけど)、9割がたの人がおごってあげるのではないかなあ。
    れなの罪悪感は大事なものかもしれないけど、苦しくなりすぎなくていいと思う。れな一人を苦しめたくないというか。逃げてるだけかな、それは?



    そもそも、具体的な生活のなかでは、what really matters は 単なる人間同士としての関係だと思う。
    簡単に言ってしまえばスキキライ。

    なにじんか。男か女か(そのどちらでもないか)。知り合いか友達か片思いか恋人か。健康か病気か障害者か。美形か不細工か普通か。学生か あるいはどんな職業か。
    そういう、客観的スペックにも、コミュニケーションにおける判断って相当左右されるけれど、結局わたしは 好きだったらおごるし、嫌いなやつだったらそもそも会わないだろう。

    それでも、好きでおごってあげているにもかかわらず おごってあげることに抵抗が残っていたら、正直に相手にそう言う。わたしもわたしなりに今月ピンチなのに、おごってあげるんだからね。あなたが○○だからおごってあげるんじゃなくて、友達だからおごってあげるんだからねって。

    そんなのきれいごとすぎる? 実際にはそんな風には振舞えない? わたしは鈍感すぎるかな。そんなこといちいちしてたら、人付き合いなんてできないかな?

    これじゃ、提起された問題を正面から受けとめてないかな。

    背負っている国とか文化とかって、あまりにも重くて、そこに関心を寄せていると、上で言った「単なる人間同士」っていう言葉が あんまり意味をもたなくなってくるのかなあ・・・。

    日本に来てくれているという状況ではなく、現地で一緒に生活している中での話だったら、コトは全く変わってくるのかも。



    あと、2.に関して、見当違いかもしれないけど少しコメントします。読んで不快になったら本当にごめん。

    「自分ゴトにしていく」って、とても素敵だなって思う。しかし

    わたしは、それに近い考え方で生きてきて、教育学部に進んだりもしたのだが、わたしの(あくまでわたしの)その考え方には限界があった。それはニセモノのやさしさだったなあと最近気づいた。

    変えられない、どっかから湧いて出てくる自分というものは、ババーンと、厳然と 存在する。
    自分の中身には、他人に影響される部分もある。しかしそれを超える何かが、自分の中からは湧いて出てくる、少しの努力でそれは顕在化して人生を変えていく。ハッキリ輪郭をもった自分というものは絶対あると思う。
    (うーん…これはあまりよく説明できないから置いておきます。)

    「あの人は気の毒だ、助けたい」「あの人は命に代えても守りたい」と、本当に!心から!思えることは、あんまりたくさんはないと思うのだ。
    世界のことを、自分のことのように 本当に!心から!感じることの出来る人は、とっても少数だと思う。
    そして、それでよいのだと思う。自分のしたいことをして、世界に目を向ける余裕がない人が大半だって、よいのだと思う。(もちろんこの文には山のように注釈がつくけれども。今はそのエネルギーがないので割愛)

    わたしは、子供を教育によって幸せにしてあげたいと、心から思ってはいなかった。頭や理屈で、そうするのがよかろうと、計算していただけだった。

    れなは、本当に 心から、世界のことを自分のことのように思えている人なのかもしれない。もしそうなら、れなは、世界にとって類まれなる人材だなあ。
    (別にそうじゃなくても、わたしとか、その他の誰かにとっては、類まれなる大事な友人なんだけど。)



    長くなりすぎた・・・? ほんとに、見当違いというか、れなの関心ではないことについて書きすぎた気がする。ごめん。

    でも とりあえず、せっかく日本に来てくれてたら、ブータン人だろうがロシア人だろうがルクセンブルク人だろうがブラジル人だろうがおごってあげる気はする。

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  2. コンニチハ。yokomichiブログから来ました。ジャマイカンの後輩です。

    奢る気持ちは間違ってないのではないでしょうか?トーゴの時の話と今回とじゃ全くシチュエーションが違いますよね。

    トーゴで働いている間に、安易に金を持ってるからあげる、というのは"援助"というある種上からの目線があるのかもしれません。けれど、日本に遥々やってきた友達に感謝の気持ちを伝える意味で奢るのとはまったく別でしょう。

    援助慣れの問題は深刻だと思いますが、それはやっぱり現地で考えもなしに金をばら撒く人がいるからであって、ここは違いますよね。そもそもそのアフリカ人は援助されるために遥々日本にやってきたわけじゃないだろうし。

    余りブログを読んだわけじゃないのでまだわからないけどアフリカにいる時にレナさんは圧倒的に”持つ者”側だったから、その点での感覚が敏感になりすぎているんじゃないかなぁと思います。


    トモダチの話も、やっぱり自分がどう感じるかじゃないかと自分は思います。
    レナさんが、せっかく着てくれたんだし奢ってあげたいな。と最初に思ったならそれは友達とあなたが思っていて、逆に途上国の問題を先に考えていたならそれは相手は援助対象という視線が強かったのかなと。

    金の話を完全に抜きにして生活するのもなかなか無理があるとは思いますが、友達ってそういうもんじゃなくないですか?

    僕はアフリカに言ったわけじゃないからわからないことも多いけど、単純にお持て成しをしたいという気持ちに無理やり先進国と途上国の議論を入れてしまってるのではないか?と感じてしまいました。

    長々とすいません 汗

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  3. 答え、ないんじゃないですかねぇ… 悲しいけど… 

    Bの立場も、十分に「自分ゴト」の立場ですよね。Bの立場の存在を自分の中に許すっていうこと自体が、相手に及ぼすあらゆる影響を問題化するっていう意味で、「他人ゴト」とは対極のスタンスやし、さらに、Bの立場を引きいれてAとBの葛藤に苦しむそのジレンマを生きる(sufferするっていう意味を含めての、生きる)こともまた、同時に「自分ゴト」のスタンスやと思いました。

    Bの立場の存在を認知してる時点で、より徹底的な意味でれなさんはAです。たぶん。

    れなさんがよく言う「よりよい世界」っていうのは、僕も、自分と他人の境界がなくなった世界やと思う。分析哲学・政治哲学的にはもちろんアリトアラユル批判、非難、誹謗が向けられるような愚鈍な断定やと思いますけど、でもやっぱり、なんとなくそう思う。

    でも、それは道のりの困難な(不可能とは言いいたくないので、あえて困難って言っておきます)理想ですね。

    わかりあえたらいいなぁ。

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  4. みなさんコメントどうもありがとうございます。相変わらず返信が遅くてすみません。


    友達として付き合えばいいじゃん。

    わたしもそう思います。

    でも、相手との圧倒的な境遇の溝が存在している時、先進国の人間が定義しているような「友達」という関係が成り立ちうるのか。許されるのか。

    これが今回の問題提起でした。

    わたしにはどうしても、「友達として」というのは自己満足や欺瞞のように思えてなりません。
    というのも、これは自分も接し方の問題じゃない。相手の受け取り方の問題だから。
    こちらがどう接していたって、トーゴ人にとってみればわたしは「先進国の人間」以外の何者でもない、と映ってしまうほど、トーゴで感じた「わたし」と「彼ら」の間の境界線は圧倒的なものだった。

    ただ、「友達」になるために、溝をなくすことは、ひょっとしたら不可能じゃないかもしれない。
    でも、それはきっと忍耐とか努力とか屈辱とかが必要な、容易ならざる道のりのような気がしています。漠然と。

    たかちゃんの言ってる通り、たぶん答えなんてないんでしょう。わたしも答えを求めてこのポストを書いたわけじゃない。

    とはいえ他の人はどう思うかをとても知りたかったので、頂いたコメントは大変参考になりました。どうもありがとうございます。

    ***
    あと、いっちゃん。

    ほんと久しぶりだね!

    2.についての意見、どうもありがとう。

    わたしも、世界を自分ゴトに、っていうのは自己満足だったり欺瞞なんじゃないかっていう不安は、常に持ってる。

    だけど、これって世界平和のようなものかなと思っていて、完全に達成することはもしかしたら不可能かもしれないけど、それに向かうことに意味があるんじゃないかなあ、って思うんだ。

    世界のすべてを自分ゴトに、っていうのは、不可能かもしれない。

    でも、日々の生活の中で、自分を大切にして、自分の周りにいる人を自分と同じくらい大切にして、その「周り」をだんだん広げていけたらいいな、って思う。

    わたしが旅に出た理由も、その「広げる」ということのためだった。

    でもやっぱり、いっちゃんにはこれが欺瞞に映るかもしれない。
    いっちゃんが言ってくれたことは、いっちゃんがいっちゃんの人生をかけて考えて出した(暫定的か決定的かは知らないけど)答えだと思うから、わたしもその重みを真摯に受け止めて、少なくとも自己欺瞞や偽善なんじゃないかっていう不安や恐怖とちゃんと向き合って、常にそれらと闘っていこうと思う。

    ***
    タケシくん

    直接の知り合いじゃない人からコメント頂くのは初めてなので、嬉しいしちょっとどきどき。笑 ありがとうございます。

    敏感になりすぎているっていうタケシくん指摘は、その通りかもしれません。

    上にも書いた通り、問題は「友達」という関係自体が可能なのかということですが、ここでわたしは絶対に自己満足的な帰結には陥りたくないのです。それは敏感すぎるでしょうか(反語ではありません、念のため)。難しいですね~。

    ちなみにタケシ「さん」だったらごめんなさい!笑

    ***
    たかちゃん

    よりよい世界の在り方について、たかちゃんが共感してくれるのはなんだかすごく心強いです。

    そういう関係性を、愚直に志向し続けたいね。

    金曜日ランチ楽しみにしてるね!

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